一里塚

日々の流れに打ち込む楔は主観性だけあればいい。

怒りに任せて筆を執り

最近友人から「お前のように見た目からして私は異常であるというアピールをしていきたい。」なる言葉を貰うことがある。私個人としてはそこまで異常な恰好をしているつもりはない。無骨で巨大なヘッドフォンを頭に付け、首に黒いチョーカーを巻き、首からシドチェーン(セックスピストルズのベーシスト、シド・ヴィシャスがつけていたような南京錠のついたネックレスである)を下げている。

思えば、このような恰好を始めたのは最近である。高校生の頃、毎日ずっと同じプレイリストを聴いていた。これはほとんどがパンクロックにより構成されるものであり、その頃の私は常にパンクロックの根底たる感情「怒り」を覚えていた。理不尽な制度や社会に対する漠然とした怒り、俗にいう中二病というやつである。

ふと思い立つ。高校生から学部1,2年の頃、あの頃は思考に速があった。人の目を恐れず、自信のもとにただ怒りの赴くままに強い主張を行っていた。今はどうなった。丸くなってしまった。これはよくない。気持ち悪い人には気持ち悪いと言い、頭が悪いと思った人には頭が悪いと言う。それが私のポリシーではないのか。

ふと気づく。あの頃抱いていた「怒り」はどこに行ってしまったのか。ただ流れるがままに曖昧な日常を流れているだけではないか。

どうしていいかわからないときはまず形から入るべきである。チョーカー、チェーンを身に付ける。ベースを買った。パンクロックを取り戻すために。

それが成功したのかどうか、そんなのは分からない。ただ、今の私には小さくはあるが確かに「怒り」が存在する。今日苦手な午前中のセミナーに出ると、発表が目に余るグダグダでずっとブチギレている。初めはこんな小さな対象への怒りでもいい。だって私は抽象化が得意なのだから。きっといずれこの小さな対象への怒りが大きく一般化され漠然とした怒りを取り戻すのだろう。

怒りに任せたままブログの筆を執ったが、やはり私にはこれくらいの速が似合うのではないだろうか。客観性の欠片もないが、このブログの紹介文にもある通り、こんなものは主観性だけあればそれでいいのだ。