一里塚

日々の流れに打ち込む楔は主観性だけあればいい。

サルトル『嘔吐』読書記 2

寒い夜だ。

低気圧で何もできずに布団で一日を過ごし、目が覚めたら夜であった。このままではいけないと思いシャワーを浴びて身体と頭脳を起こし、腹ごしらえをして一日を始める。何をする気にもなれないのでこんな時は本でも読もうと思い音楽を流しながら熱い茶を啜り本を読む。寒さと言うのは苦手であるが、寒い日の澄んだ空気、身動きをすると自分の何かが切れる、自分のどこかに空気が刺さるような感覚は好きである。しかしどうしたことか、本を読み進め気を持ち上げようとしても一向に陰鬱な気分は晴れず、集中が続かない。思考があちこちに飛んで行ってしまう。何か手でも動かせば集中が続くかしら、そう思いブログを更新するに至った。散逸した文になってしまうだろうが、そういったところも自分の書く文であろう。主題が通奏低音として流れながらあらゆる記述が必要十分に張り巡らされ、各文が密なネットワークを構築しているような文章と言うのは、私には荷が重い。少なくとも今書かずとも良いであろう、いずれ気が向いたら……その気が向くときは来るのかしら、などとまた思考が雲散してしまい、霧消はしてくれない。これ以上続けていると頭の中の情報量が爆発するのでさっさと目の前の『嘔吐』に集中しよう。

さて、前回は「日付のないページ」で、ロカンタンが「もの」の見方が変わってしまい、何かふとした瞬間に恐怖を感じた、乃至それに似た感情を覚えたことを記していた。

その後「十時半」と書かれたパラグラフが始まる。

結局のところ、あれはおそらく、ちょっとした狂気の発作だったのだろう。今はもうその痕跡もない。先週感じたおかしな気持は、今日になるとひどく滑稽に見える。もうあんなことにはならないだろう。今夜の私はこの世界のなかで、ブルジョワ的にすっかりくつろいでいる。ここは私の部屋で、北東に面している。

原注に依れば、このパラグラフは前回の部分よりもずっと後、早くとも翌日に書かれたものであると言われている。本当にそうだろうか?私は疑問に思う。前回の部分の同じ日の夜なのではないだろうか? この「十時半」の日記でロカンタンは執拗なまでに「治った」ことを自分に言い聞かせている。これは本当に治ったかどうかはさておき、自分に「日記を書き始めたことで治ったと思い込ませている」のではないだろうか?皆さんにそのような経験はないだろうか。私には大いにある。何か新しいことを始めるときにその効能と言うのを自分の中で必ず意識しており、そしてその何かが無駄でなかった、始めるという自分の選択は正しかったと自らに信じ込ませるために(信じ込むのは一階層下の自分であり、「自分に信じ込ませている」状況を認知している自分も存在するのだが)、その何かを始めた直後にその効能を自らに説く、と言うのはほぼ必ずある経験である。 サルトルはしかし、こういった経験や感覚と言うのは一般的でない、乃至少なくともこの日記の「刊行者」は持っておらず、それ故「十時半」はずっと後に描かれたものだと思い注を付けるに至った、という一種のロールプレイを楽しんでいたのではないだろうか?……などと言うのは考えすぎなのかもしれない。私には正解がわからないが、正解のわからないものを考え続けるのも楽しい。

ところで内容の話に踏み入れよう。先に触れたようにロカンタンは自分に「治った」と言い聞かせている。ここで注目したいのが「今夜の私はこの世界のなかで、ブルジョワ的にすっかりくつろいでいる。ここは私の部屋で、北東に面している。」の記述だ。 この記述に私は甚く共感する。自分が「治った」と思うためにはどういった主張をするのか。自らに宿った理解していない感情を切り離すためメタに立った視点から自己を客観視し(これは離人している人間にとっては非常に容易だ)、かつ「メタに立ち客観視することで自分の感情を無視しているだけだ、現実感を喪失しているだけだ」と言う主張に反駁するため、現実感を自分に言い聞かせる、即ち「私はここにいる」と知覚するのである(後者のこれは私もよく行うことで、日常のふとした瞬間に「俺はここにいる」「ここは俺の部屋だ」「ここは街だ」と独り言ちることが多い)。

これを意識すると「ここは私の部屋で、北東に面している。」の一文が非常に味わい深くなる。 主体が自分の身体と一致した階層にいるとき、自らが存在する部屋が北東に面していると意識することがあろうか?昼に日が差しているのを見て「南向きだ」と意識することはあっても、「ここは私の部屋で、北東に面している。」といった文が出てくるのは、視点が遠くに飛んでいるからこそのものであろう。いやはや私も非常に共感できる。

全く関係ないが(ということもないかもしれないが)私の好きな Radio d2b on AIR という曲の歌詞を置いておく。

キラキラした時間刻め!

聴こえてきた歌がそう言ってる

大きな声で世界中に叫ぼう

僕はここに、ここにいるって


---第二文芸部 "Radio d2b on AIR"

閑話休題、その後ロカンタンは窓からの景色や聞こえてくる音など、外の様子を記す。ここについても言いたいことがいくらかあるが、それはきっと後程にまた相応しいところが出てくるであろうし、ここで述べるには些か曖昧が過ぎる。

そしてロカンタンは「ルーアンの男」について言及し、将にそれを記しているときに彼が階段を上がってくる音を聞く。

ところで階段を上がる彼の足音が聞こえた時、私は少しほっとした。それほどに、これは安心感を与えるものだった。かくも規則正しい世界を、なんの恐れることがあるだろう?私はどうやら治ったようだ。

思った通りに男が来る。きっと一時間後には今過ぎた電車の次、最終電車が通り過ぎるだろう。規則正しい、即ち自分の思った通りのことが起きる世界である。このような「もの」たちにロカンタンは自分を悩ませる感情である「それ」を感じる必要などない。

さて、「十時半」のたかが2ページについて長々と語ってきたが、この記事を書いている間は相当に集中できていたようだ。どうやら私も治ったらしい。次回に続く。