一里塚

日々の流れに打ち込む楔は主観性だけあればいい。

止まない雨は誰のものなの

空には雲が立ち込めている。雨がアスファルトを叩く音がうるさいくらいに耳に入り込む。

傘を持ち大学構内を歩いている。唐突にすれ違う人々の顔に力いっぱい傘を振り降ろしている自分の姿が見えた───誰の目に?他ならぬ私の目だろう。私はそうしなければならない気がする。着ている服の肌触りが、ざらつきが自棄に気になる。またあれだ。あれがやって来た。学部一年生の頃からいつも私を悩ませるあの感覚、衝動である。

「いつかこの浮かんだ情景は実現するだろうが、今ではない。」そう言い聞かせ自らを納得させる。私はここにいて、歩いていて、授業に向かっているのだ、そう言い聞かせ自覚させる。生活の中に自分を埋める。冷静になるのだ。冷静になると自分を一つ後ろから、一つ上から眺めている自分が発言しだす。小説でいう「地の文」である。何がそんなに私を駆り立てるのか?彼らの表情を見る。笑っているもの、悩んでいるもの、虚ろな目をするもの……みな表情が貼り付いている。この生活に、現実に真剣そうな顔が貼り付いている。何をそんなに真剣そうな顔をしているのだろう?そんな表情は全部ポーズだとみな気づいているのに。何を真剣そうに、バカバカしい……と苛立っていた私の苛立ちも全部ポーズだ。自分の口の端が引き攣っているのに気づく。それが笑いだということを理解するのに暫く時を要した。私はこんなに巧く笑えなかっただろうか。笑っているのが、私の顔を笑わせている感情の持ち主が、私のことを上から見ている私であることに気づく。この身体の中に存在している私は、私をもっと巧く笑わせられるのに。まるで身体の隅々まで知り尽くした女を取られた間抜けな男のような台詞だ。そう思ったときには自然な笑いが浮かんでいた。自己が統合してきた。私はまだ乖離していない。私は統合している。「地の文」の私がなんとか記憶と自己を連続に保たせているのだ。

最近、まるで何かに取り憑かれたかのように中村文則氏の本を読み漁っている。文が、小説が、登場人物が、自分の肌から浸み込んでくるような感覚を覚える。実在する他者が入り込んでくるのは非常に気味が悪く、それに対して私は異常なまでに臆病になってしまう(過去の記事でも触れた通りである)。しかし創作が入り込んでくるというのは、当然似た抵抗がないと言えば嘘になるが、自分の境界が滲んで混ぜ合わさった、非常に気持ち悪くそして心地良い感覚を自分の中で完結させて味わうことができる。登場人物と小説世界が自分と一体となったとき(梵我一如とはこういった感覚なのであろうか)、登場人物の台詞が、行動が、情景描写が、読み進めるよりも前に自分の中で一字一句違わず浮かんでくる。勿論これは錯覚なのであろう、現実にそんなことが可能であるとは毛頭思っていない。しかしそのような感覚を覚えるのは間違いのない事実なのである。読み進める視線は止まらない。文字が目に入った瞬間、まるでその直前に私自身がその文を思い浮かべていたのではないか、そう感じるのである。

こうして小説の登場人物や世界に自己を溶かすと言うのは、一見矛盾したように思えるが一種の自己防衛なのかもしれない。自分を物語化し、そして典型化する。(本筋とは外れるが、典型的と言うのは良い。予想を外れない、全て決まっている。)なぜ自分を典型化するのか?典型化、それは自分に名前を、既に自分の外で確立された名前を付けることである。そして「私はこういう人物です」と、その名前の通り行動する。そうすることで自我に強固な殻を作る。自我が外から侵入されるのを防ぐ殻を。まるでグレーゴルが毒虫になったように。そして自分すらも騙し込む。全てポーズだ。全て演技だ。全て虚構だ。

中村文則氏の小説に登場する人物達に私を典型化してみようか、私も『銃』における銃や『遮光』における指のように何かを持ち歩いたり、『悪と仮面のルール』や『遮光』における髪や爪のように体の一部を保存したりしようかしら。思い立ってふと気がつく、そういえば私は一時期自分の切った爪や耳垢、指や唇から剥いだ皮を後生大事に集めていた記憶がある。あれは中学生の頃か、将又高校生の頃だったろうか。なぜあんなものを集めていたのか今では全くわからないが、あの時はなぜかそうしていた。特に執着していたわけでもなかったと思うのだが。

中村文則氏の『迷宮』の主人公のように(或いは中村文則氏本人もそうであったと述べているように)、幼少期に自分の中に別の誰かを作り出して対話をする、と言うのは典型的な解離性人格障害であろう。私にはそんな経験はなかったと記憶しているが、幼少期に最もハマっていた遊びが少しは関連しているのかもしれない。幼少期の私は大量の人形を集め、それぞれに性格の設定をつけ、何かしら物語を即興で考え、敵味方や裏切りなどを全て設定し、声を使い分け各人形の台詞を言い、自ら作った物語を人形劇のようにして妹に見せて遊んでいた。妹が勝手に人形を動かそうものなら、「今そいつはこの舞台上にいないんだから勝手に動かすな」と怒鳴った記憶がある。自分の中にある明るい感情やその底に沈む昏い感情、そのような大きな軸だけでは区別されないような細かい感情を全て性格、人格に分けキャラクターに投影して遊んでいたのである。その頃から第三者視点、「地の文」たる自分即ち脚本家たる自分と、各キャラクターに移入する自分乃至は各キャラクターに投影させた自分と言うのを切り分けていたのだ。「地の文」たる自分が全てを統合し記憶の共有を執り行っているからこそ乖離していないが、これは非常に危うい状態にいるのではないだろうか。

書いている内容が散らかり纏まらなくなってきた。『迷宮』からどこか引用して記事を締めようかとも思ったが、この小説については別口で何か書かなくてはならないという気がするので何も引用することなく締めようと思う。雨がやんでいることに気がついた。人々が道を踏む音がうるさい。何故か道端に落ちている一つの石が気になって仕方がない。自分の手が傘を握る形をしているのに気がつき、そりゃあ傘を握っているんだから当然だと自分を嘲笑う。足を前に踏み出すことが大切だ。暫し生活の中に埋没しようと思う。「地の文」の私に欠伸をさせる───一体誰が?考えるのはよそう。お休み。