一里塚

日々の流れに打ち込む楔は主観性だけあればいい。

NO FUTURE

報酬見込みがあまりに短期的すぎる、と明確に自認したのは最近のことである。

どうも私は、その瞬間その瞬間での報酬を重視し、将来的に獲得できる見込みの報酬を軽視するという行動戦略らしい。 強化学習でいう割引報酬率γが大きい、という形だろうか。 その場その場での刹那的な「楽しい」という感情を重視してきたため、「将来を見越して苦労しながら努力を重ねてきた」経験が圧倒的に皆無なのである。

とはいえ、こういった性質の人間というのは特別な存在というわけではない。 「努力できるのが才能」という言葉が月並みになるほど擦られているように、世の大多数というのはこちらなのではないだろうか。 しかし、繰り返すが私は明確にこう自認したのが最近なのである、即ち「自分は将来を見越して努力できる人間だ」とまではいかずとも、「刹那的な報酬に溺れる人間であり、将来的な報酬の見込みを立てることが苦手な人間である」とは認識していなかったのである。

一般的に人というのは、生来この将来的な報酬の見込みというのが苦手なものでありつつ、それを学校教育などを通じて解消していくものなのだと思う。 「将来のために勉強しなさい」といったように、「勉強という、短期的には苦痛であるが長期的には報酬が得られるもの」を通じて、長期的な報酬のために行動することやそれを見積ることが苦手であったとしてもその重要性を理解し、可能な限りそれを正確に行うための訓練を積むのである。

ただ、私の場合は報酬設計が異なっていたのであろう。 「勉強」、特に「受験勉強」と呼ばれるものが特段短期的にも苦痛ではなかったのである。 学校もあまり一般的ではない長距離通学であったが、学校自体が楽しく、肉体的にはつらかったこともあるがそれを上回る報酬が得られていたのである。 その結果、客観的には「将来を見越して進学校に長距離通学を頑張り、夜遅くまで受験勉強を頑張った結果受験戦争などでしっかりと結果を残した人間」と評されることになるのだが、その実主観的には「その時その時でやりたいことをやりたいようにやっただけ」であり、たまたまその「やりたいこと」が「世間的が評すること」と一致していたために結果がついてきてしまっただけなのである。 この結果、「将来を見越して長期的な報酬のために行動できる(と少なくとも世間的には評される)集団」に属することになり、その実態との乖離に気づかぬまま今まで来てしまったのである。

一言で言ってしまえば「受験勉強の才能があっただけ」ということになる。 受験勉強を楽しむ才能、そして受験勉強自体の才能があったということだろう。 もちろん多少は苦痛に感じることもあったが、本質的に「嫌いなこと」や「苦痛」とは全くもってレイヤーの異なる苦痛であった(「乗り越えられる」苦痛といったところか)。

そんな短絡的な報酬しか見ていない状態が許されるのは所謂「子供」の特権であり、所謂「大人」は許されないのである。 実は大人であっても許される場合というのは特例的に存在していて、それはその大人が「楽しむ才能」を有している対象物自体に対しての「才能」が社会的に認められるほどの才能であった場合であり、当然のことながら私はそこまでの才能を有していたわけではない。

「大人」として、長期的な報酬も考えつつ行動していくという努力が必要なのだが、これがなかなか難しい、というただの自己分析と愚痴になってしまい、特段オチも存在しないのだが、自己内面の吐露を行っているだけでもまあ良しとしよう。