一里塚

日々の流れに打ち込む楔は主観性だけあればいい。

M-1グランプリ2023 感想

久しぶりに筆を執ったかと思えば、今までのブログの趣旨からだいぶ外れた記事になってしまった。 とはいえブログの一貫性などに囚われるのはただの無意味な強迫観念なので、目を背けて事なきを得るとする。

さて、タイトルの通り、今年のM-1グランプリを観て感じたこと、考えたことを取り留めもなく書き留めておこうと思う。 方々で様々な方々が話していることのつなぎ合わせでしかなく、書き留めるに足らないことばかりではあるのだが、書き留めておかないと忘れてしまいそうなことが多いため、来年のM-1グランプリの季節などに自分で読み返してニヤつくためだけに書いておこうと思う。 また、言語化大好きマン過ぎて「野暮」とか「粋」といった概念を獲得できないまま大人になってしまったので全部言語化することを心掛ける。

ちなみに私はお笑いやがM-1グランプリが趣味ということは一切なく、普段劇場に行くこともなく、ほとんど一銭も払っていない素人であるので、"皆目見当違い" な自称 "考察" にも満たないものでしかないことは先に留保しておきたい。 一度だけM-1にエントリーしたときのエントリーフィーは払っている気もするが、当時金がなさ過ぎて相方に払ってもらった気もするので、本当に一銭も払っていないかもしれない。

さて、結果的に令和ロマン(以降コンビ名敬称略)の優勝に終わった本大会であるが、振り返ってみれば「主人公力」がキーとなっていた大会に思う。 「主人公力」は「観客・会場を巻き込む力」「カリスマ性」とも言い換えることが可能であろう。 簡単に言うと、「観客を巻き込んだ漫才」のが令和ロマンの1, 2本目両方とさや香の1本目、「観客を巻き込まずとも笑えた」のがヤーレンズの1, 2本目両方と令和ロマンの2本目はこの要素も含んでいる、ということなのだと思う。 令和ロマン・髙比良くるま氏の記事から引用するなら、主人公が連続したことへのアンチテーゼとしてダークヒーロー・ウエストランドが優勝した昨年とは違い、抜群の「主人公力」を兼ね備えた令和ロマンが優勝した、ということになるであろう。

敗者復活からぶっ続けで7時間、自分のようにM-1を楽しみにしすぎた人間はTVer事前番組から打ち上げ配信まで12時間ほどの生放送にかじりつくという異常な空気感でスタートした会となった。 ルール変更の初年度、失礼ながら本命とは言えないシシガシラが勝ち上がるという劇的な結末を迎え、とてつもない盛り上がりを見せた敗者復活戦からシームレスに決勝戦がスタートする。 敗者復活戦から観ている人にとっては「この漫才師たちを準決勝で打ち破って決勝に上がってきたとは……いったい、どうなってしまうんだ~~~???」とハードルが爆上がりしている。 敗者復活から間を挟まずに番組がスタートしたこともあり、少しクールダウンの間を持たせる、かつ敗者復活戦勝ち上がりコンビのシシガシラの移動時間確保のため、全力で振りかぶったOPムービー、たっぷりと30分以上は焦らすオープニング、といったあまりに長すぎる助走により、否が応にも期待が高まっていく。

そんな異様な空気感の中、1組目、令和ロマンの登場である。 不利といわれる、というよりももはや公然の事実として不利と認められているトップバッターという絶大な逆境、本大会最年少、という主人公が活躍するための土台が万全に整った中で待望の主人公が登場した。 せり上がりの時点でくるま氏が正面ではなく袖の方向を指差しながら何かを主張している、という「明らかに間違った行動」を「全力で」行っているという、一発で「こいつ、頭おかしいやつなんだな」と思わせる登場。 そしてすぐに相方松井ケムリ氏の顔を鷲掴みにし、観客に向けてしっとりと語りかける。 登場時に「おかしなこと」を「全力で」やっていたわりに、ゆっくりと、そしてしっとりとケムリ氏の髭ともみあげがつながっていることを説明される。 観客としては明確に言語化される直前の「あれ?こいつ意外と普通かもしれない……?」といった疑念が湧くか湧かないかのタイミングで「日本から独立」という明らかに間違ったワードが出てくることで、緊張と緩和、たっぷりとった間がフリとなって観客の心を掴むことに成功する。 その後、「そんな松井ケムリさん率いるみなさん」「これを今日マジで全員で考えたくて」と2ボケ連続で「観客を使ったボケ」が続くことで、「観客を見捨てずに巻き込んで」笑いを取っていく(「登校時に曲がり角でぶつかった相手が転校生」という「あるある」が題材なことも作用しているかも)。 また、作りこまれたボケを解き明かした際の気持ちよさを伴う笑いや、シュールな空気感がなぜか面白くなってくる、といったある種の小難しさを全く伴わず、ともすればベタで安直とされてしまうやもしれないが、「わかりやすく笑える」ボケを完璧な間や独自の切り口で展開していくことで、敗者復活やオープニングによる長い助走をしっかりとフリとした「あんなに丁寧で完成度の高い場面で高まった緊張感を一気に解きほぐすバカバカしさ」といった面白さによって会場が爆発していく。 大々的な伏線回収や従来のボケツッコミの枠を完全無視したシュールさ、といった時間的に大き目なフリ(緊張)とオチ(緩和)はハマれば爆発につながるのだが、令和ロマンの1本目はこれをネタの中に組み込まずにM-1という大会の構造自体と自分たちのネタ自体をこの大きなフリオチの構造に乗せて爆発させたといえるのかもしれない。 最後の終わり方も綺麗で、大々的な伏線回収がなくベタに寄ったボケが多い分、終わった後の「お~~~」感が薄いのを、「面白くない真実よりも面白そうなフェイクを愛せよ」という、漫才の本質でちょっと考えさせられることをオチに使うことによって「作品としての美しさ」も一定担保されている、というスキの無い構えになっていたように感じた。

「トップからとんでもなく爆発してしまった」「トップがこんな高得点なら、いったい、どうなってしまうんだ~~~???」といった状況で登場したのは満を持しての敗者復活組、シシガシラ。 敗者復活とは異なるネタをしたので、まず敗者復活のネタから言及する。 敗者復活のネタの面白さは、浜中氏と観客全員が一緒になって脇田氏を陰でコソコソ笑う、というある種罪悪感(確か NON STYLE 石田氏の言葉かな?)にあると思う。 浜中氏のいたずらっぽく人を小バカにした笑い方も相まって、「やっちゃいけないんだけど、でも面白い」といった感覚を共有しているところに笑いが生まれているのだと思う。 この「脇田氏が可哀想なんだけど面白い」は、ともすれば「脇田氏をいじめている」という面が強調されてしまうと逆に笑えなくなってしまうのだが、脇田氏の声がすっとぼけたような声で、全員が思っているよりもワントーン高い声であるがゆえに悲愴感が全くなく、コミカルになっている、という非常に優れたバランス感覚のネタであった。

さて、そんな中で登場した決勝戦のネタであるが、この構造が薄れてしまったのではないかと思う。 ツカミでの「てっぺんだけハゲてるやつにやれよ~」はめちゃめちゃ面白く、これで完全に「小バカにする浜中氏」と「いじめられて可哀想だが悲愴感の無い脇田氏」という構造が確定するかな、と思ったのだが、この時の浜中氏の表情・しぐさが「小バカにしている」というよりは「本当に気づかずに間違えた」という感じがして、「間抜けな浜中氏」と「それに振り回されるまともな脇田氏」という構造のネタなのかな?と思わせてしまったのではないか(少なくとも敗者復活を観ていない人にとってはこのツカミで感じ取った二人の関係性がシシガシラの関係性になってしまうので)、と思う。 ネタの中身的には「まあ、いじめてもいいか」と思われていて世の中に理不尽にいじめられるハゲ、という形式だったため、敗者復活の時と同じ「小バカにする浜中氏」の方が面白くなったかもしれない。 松本人志氏の「ツカミはめちゃめちゃよかったのに本ネタはハゲネタ以外を観たかった」はもしかしてこの「間抜けな浜中氏」のボケを観たかったということなのかもしれない。松ちゃんサンキュー。 本ネタの導入も観客の心を話してしまったのでは、と思うところがあり、脇田氏の「こないだ合コンですっごく当たりで」という導入によって、それまでマスコット的だった脇田氏に対して「あ、合コンとか行って女の子に当たりとか言うんだ……」と、ある種の汚さというかナマモノ感が出てしまったのでは(ぬいペニ現象)、と思う。 しかもそのあと「看護婦」となり(そのあとに「今看護婦って言っちゃダメなんですよ」とネタの本質的な部分が始まっていくのだが)、やはり観客の中で一瞬「え?今看護婦って言った?」となってしまい、スッと心が離れてしまったのかもしれない。 これによってその後いくら脇田氏が「可哀想なハゲ」になったとしても、あまり罪悪感が生まれず、ネタに入り込めなかった、ということではないのだろうか。

続いて3組目がさや香。 昨年あれだけのインパクトを残した上でさらに進化してくるのは本当にすごいなと思った。 前半の部分で「めちゃめちゃ良くできててめちゃめちゃ面白いけど、掛け合いしていくうちに新山氏の熱量に引っ張られてどんどん熱が増していくという笑いのシステム自体は去年と同じかな……?」と思わせたうえで(去年のネタは熱量だけじゃなくて細かく細かく話が脱線していくという面白さがあるのだが)、後半に石井氏が逆ギレして暴走していく、という構造は非常によくできていて面白かった。 技術も高く構成も良くできていて、かつ新山氏の熱量に引っ張られる形で観客も巻き込まれていく、という非常に完成度の高い漫才だったと思う。 ただ強いて挙げるなら、去年の1本目、免許返納のネタの細かく細かく脱線を繰り返す、というテクニック・構成的な面白さに対して、今年ももちろん構成的な面白さはあったのだがそれよりもパワー・熱量で押し切ったという印象を与えてしまった部分もあったのかもしれない。 会場は爆発していたのだが、完全に爆発しきって「文句なしにさや香の優勝だな」とはならず、「まだ7組も残ってる、さや香を超える組が出てくるか?」という気持ちになってしまったのかもしれない。

4組目、カベポスター。 このあたりから本大会の流れが確定してきたのかもしれない。 絶妙なバランスで良くできたネタだなぁと思ったのだが、イマイチハマり切らずに終わってしまったように見受けられた。 ツカミを別として、1ボケ目に対する浜田氏のツッコミ「せやなぁ」のところでもっと観客を巻き込めるのが本来の姿だったのではないだろうか。 こういった「わざわざ言葉に出さないけど、観客の皆さんと同じ気持ちを共有していますよ」のような絶妙な空気感、シュールな面白さ(くるま氏の記事の言葉を借りるなら「機微」)がカベポスターだけでなく全体的に本大会ではあまりハネ切らなかったような印象を受けた。

1~3組目の特徴として(しゃべくり漫才あるあるかもしれないが)、ツカミや1ボケ目の「フリ」が長く、それをしっかりと回収するという流れが出来上がっていたのかもしれない。 令和ロマンはツカミの「髭ともみあげがつながっている」という説明を長めに行っていたし、そのあとの「これを今日マジで全員で考えたくて」までも前提を丁寧に時間を使って説明していた。 シシガシラもツカミの「ちゃんと深くお辞儀しろ」の部分を丁寧にフっており、またそのあとの「ハゲは言っていいの?」までを(もちろん「ちゃんと『看護婦さん』って言ったよ」など細かい笑いどころを散らせてはいたものの)丁寧に長く展開していた。 さや香も、石井氏が歩きながら導入を喋るというツカミは早かったものの、その後の「黙って引っ越す」まででしっかりタメを作っていた。 このように、1~3組目で「丁寧にタメを作って、しっかり落としてハネさせる」という仕組みが続いたこと、またメタ的にも長くてクオリティの高いオープニングで散々タメられた後に令和ロマンがそのタメを使って爆発したこと、といったような現象が続いたことで、観客の中に「長めのタメを作って、しっかりをそれを回収して爆発させる」という期待感が生まれてしまったように思える(KOCのファイヤーサンダー feat. 梅田サイファー よろしく「長めのタメ」と書こうとしたが本当に無駄なくだりなので省いた)。 「爆笑が、爆発する」というキャッチコピーも相まって、ある種「タメ・オチ・爆発」中毒のような現象に陥り、それがずっと尾を引いたような大会だったのではないだろうか。 もしかしたら3組目のさや香がとてつもない熱量で観客をノせてしまったことにより、この「観客の心の中でだけツッコませるシュールな空気感」の面白さが吹き飛んでしまったのもあるのかもしれない。

永見氏が丁寧におまじないについての導入を説明する中、観客は無意識のうちに「タメ」を感じ取ってしまい、過剰に爆発を待ってしまったように思えた。 その中で浜田氏が「せやなぁ」とスカすことにより、「不倫現場やん」という暗黙の了解を共有している、という空気感のもつ独特の緊張感や面白さ、といった所がうまく作り切れなかったのではないだろうか。 本来であればこの独特な緊張感の上で掛け合いがなされていくことによってどんどん面白くなっていく、という構造だったと思うのだが、そこがハマり切らなかった印象を受けた。

ここまでしゃべくりが続いた、というかしゃべくりが出切った後に登場したのが5組目、マユリカ。 キャラクターを活かしたコント漫才で、フリー大喜利(友達の紹介)、後半の長めのタメとオチといった形で様々な要素を散りばめた漫才で面白かった。 審査員によっては令和ロマンよりも高い点数をつける中、ぎりぎり令和ロマンに届かない結果となった。 他組を圧倒して高得点、とまでハネ切らなかったのはやはりコント漫才の宿命か、「嘘感」なのかもしれない。 「倦怠期が嫌」という中谷氏に対して、「そう?」と疑う阪本氏なのだが、1ボケ目で中谷氏演じる妻に対していきなり全力投球で喧嘩を売りに行く阪本氏。 ここには「いやお前倦怠期が嫌かどうかわからんテイやったのにお前から喧嘩売るんかい!」というシュールさ(観客に心の中でツッコませる)・空気感も面白さの要因としてあったのではないかと思うのだが、シンプルにワードとしてのボケの強さだけがウケていたように思えた。 この「阪本氏がノリノリで役に入り切っている」ところを自前でツッコんで消化して初めてコントの世界に入り込めるのだが、前述のとおり観客がそう言った空気感を消化できない流れになってしまったが故、「でも嘘じゃん」というコント漫才に対してコスり倒されてきた違和感が起こってしまったのかもしれない。

続いて6組目のヤーレンズ。 ここもマユリカと同じくコント漫才なのだが、「嘘感がない」かつ「細かい違和感などどうでもよくなるくらい途中の小ボケで笑える」の2点が優れていたように見えた。 まず「嘘感がない」なのだが、これは煽りの紹介VTRから始まっていたように思える。 「ノンストップ・ウザ」「ヤーレンズとは、おしゃべり」「It's a UZA world!」から始まり、楢原氏が観客席に向かって話しかけながらのせり上がり。 丈の短いジャケット、ベッカムヘアー、観客に100%「あ、こいつウザそうだな」と思わせる登場である。 これによって観客の中で「この人がウザいんだろうな」と完璧に観方が定まったことで、スッと覚めてしまうことを避けたのだろう。 また、ここまで大会を席巻していた「爆発中毒」「シュールな空気感への乗れなさ」をすべてどうでもよいと思わせるような(敢えて言うと)"くだらない" ボケの連続によって、「何も考えずに笑うことができた」という形ではないだろうか。

コント漫才の組が続いて7組目は真空ジェシカ。 ハイセンスな大喜利ボケはそのままに、観客を引き離すことなくちょうどいい "遠近感" のネタであり、非常に面白かった。 「センスはそのままに、ちゃんとわかりやすく寄せましたよ」という形だったのだが、近さで行くと直前のヤーレンズが近すぎた(何も考えずに笑えた)こともあり、「近くに寄せたにも関わらず、ヤーレンズと比較したことによって近さだと足りないなと思われてしまった」形に見えた。 「これまでの真空ジェシカ」と比べるとセンスは変わらず近くに寄せておりわかりやすく面白いが、「直前のヤーレンズ」と比べるとセンスはあるけどそんなに近くない、センスで行ったら去年以前の方がハイセンス(自分から遠い分センスを高く感じやすい)だし……となってハネ切らなかったということではないだろうか。

8組目、9組目のダンビラムーチョ、くらげに関しては、もう上で述べた通り「シュールな面白さがハマらない」今回の流れのワリをもろに食らった形であろう。 ダンビラムーチョは1曲目の天体観測を長く歌っている中に生じる「いつまで歌ってんねん」という心の中のツッコミや大原氏の細かい変化、それらの纏うシュールな空気感が観客に共有できれば爆発したであろうネタだったと思うのだが、爆発中毒になった観客からはその長い長い天体観測を「大きなフリ」として捉えられてしまい、尻すぼみに思われてしまったのかもしれない。 くらげに関しても同様で、「なんでそんな詳しいねん」という心の中のツッコミや、渡辺氏の表情、細かい所作といったシュールな空気感が面白く、それが観客を巻き込んでいくタイプのネタだったにも関わらずやはり観客が「待って」しまったのがハネ切らなかった要因ではないかと思う。

10組目のモグライダーに関しては、モグライダーのネタ自体が水物であり、仏が出るか鬼が出るか、で単純にうまくいかなかったということだと思う。 強いて言うとすれば「優勝候補」と言われ2回目の登場、手法がある程度割れている中でラストの10組目、8, 9 組目の点数があまり奮わず全員が爆発を期待した、という中で観客が勝手にハードルを上げに上げてしまい、ともしげ氏よりも観客の方が緊張してしまったことがうまくいかなかった要因ではないだろうか。 ともしげ氏をパニックにさせるための複雑な設定でともしげ氏よりも観客の方がパニックになってしまった、ということかもしれない。 書いていてそれはさすがに嘘な気もしてきたが、面白そうなフェイクを愛することにする。

さて、8~10組目の点数が奮わず、爆発中毒の観客たちがもう限界を迎える中、最終決戦となる。

1組目、令和ロマン。 ツカミで観客全員が思い出す。 「あ、この人たちは自分たちに寄り添ってくれるんだ。」 ダンビラムーチョ・くらげ・モグライダーと、シュールな空気感が面白さの主軸となっているネタが続いた分、観客たちは「置いて行かれた」という感覚になり、「ずっとタメられている」という感覚になっている。 ここでグッと観客の心を引き戻したのであるから爆発は必至である。 くるま氏の器用なマイムによって繰り広げられる何やら壮大な機械の操作。 たっぷりと時間をとってタメにタメてからの「単純作業ばっかでつまんねぇな」のボケ。 爆発中毒なのにずっと「タメた緊張感をちゃんとオトす」というベタなネタが来なかったことにより爆発のお預けを食らっていた観客はもう令和ロマンの味方であり、虜となる。 1ネタ目後半の組が面白くなかったというわけではなく、ここにシュール系が固まってしまったことにより、観客はベタに飢えに飢えていたという状態であろう。 観客がベタを求める流れを作ったのは令和ロマン自身であるのでそれはそれで主人公過ぎるのだが。 また、くるま氏だけがコントに入っている、かつ「漫才の中でドラマを再現する」という形式であるため、「コント漫才」の嘘感が薄いという点も良かったのではないだろうか。 この設定はくるま氏が複数人を演じることができるというマイムの器用さ、ケムリ氏があまり動かずに堂々と的確にツッコむというスタイルを存分に活かすことができるので強いなと思う。

2組目はヤーレンズ。 1本目と同様、とにかく細かく打ち続けられるボケの連打。 「わかりやすさ」そして「笑いやすさ」という面では間違いなくトップであり、またオチが「ベンジャミンバトン」と絡めて「いらっしゃいませ」を最後に言う、というところも非常に綺麗な構造だったのだが、観客の「ベタ欲」「爆発欲」を令和ロマンが根こそぎ回収していった後だったこともあり、最後の一押しができなかったか。

3組目のさや香に関しては、見せ算はかなり面白いのだが、これも面白さの根幹が「シュールな空気感」であるため観客がおいて行かれてしまったという形だろう。

結局ヤーレンズに1票差で令和ロマンが優勝となるのだが、やはりここにあったのは彼らの「主人公感」ではないだろうか。 最年少、トップバッターといった逆境をはねのけ、1本目に楽しそうに喋っていた豪胆さ。 1本目がしゃべくりだったにも関わらず2本目をコント漫才として、かつそれも面白いという器用さ。 そして何より観客たちを巻き込んで、「自分たちを置いていかずに巻き込んで笑わせてくれた」というヒーロー感が優勝に導いたのではないだろうか。 奇しくも2022年に主人公が続いてダークヒーロー・ウエストランドが優勝をかっさらったように、シュールが続いて主人公・令和ロマンが優勝をかっさらった2023年であった。

自由帳1

ばかばかしい。思考の整理のために使用していくと言ったそばから、整理もできていない思考を書き連ねることに抵抗を示すという無意味な偏執狂により何も書けず、下書きに雑多なメモを残すことしかしていない。

 

そんな雑多なメモをそのまま放流するという無秩序さを残しても良いではないか。

書いてみて思ったが、これでは刊行者の言葉宛らではないか。

 

素人の短文を読むくらいなら本を読んだほうが良い。

 

アメリカやソ連は歴史を切り捨てイデオロギーで建国したというのは面白い見方である。同意は未だし兼ねるが。

 

歴史が無い者たちは出来事に関連を見出さず、未来予測を行うことが難しくなるであろう。

ロカンタンは、ロルボンは歴史が無い人間であろうか。

私も歴史のない人間かもしれない。

行動の一貫性と読み替えるべきか。一貫性のない突発的な言動と言えよう。

 

自らの言動に一貫性を見出す、というのは本質主義的であるのではないか。

 

タイガー&ドラゴンは実存主義的なのかもしれない。本質主義的に言うなれば "俺" の話の内容、即ち本質によってその話を聞く価値があるかどうかが定められるのではないか。その内容を聞く前に俺の話を聞けと主張するのは実存主義的ではないか。

 

チラシの裏すぎる。

 

 

NO FUTURE

報酬見込みがあまりに短期的すぎる、と明確に自認したのは最近のことである。

どうも私は、その瞬間その瞬間での報酬を重視し、将来的に獲得できる見込みの報酬を軽視するという行動戦略らしい。 強化学習でいう割引報酬率γが大きい、という形だろうか。 その場その場での刹那的な「楽しい」という感情を重視してきたため、「将来を見越して苦労しながら努力を重ねてきた」経験が圧倒的に皆無なのである。

とはいえ、こういった性質の人間というのは特別な存在というわけではない。 「努力できるのが才能」という言葉が月並みになるほど擦られているように、世の大多数というのはこちらなのではないだろうか。 しかし、繰り返すが私は明確にこう自認したのが最近なのである、即ち「自分は将来を見越して努力できる人間だ」とまではいかずとも、「刹那的な報酬に溺れる人間であり、将来的な報酬の見込みを立てることが苦手な人間である」とは認識していなかったのである。

一般的に人というのは、生来この将来的な報酬の見込みというのが苦手なものでありつつ、それを学校教育などを通じて解消していくものなのだと思う。 「将来のために勉強しなさい」といったように、「勉強という、短期的には苦痛であるが長期的には報酬が得られるもの」を通じて、長期的な報酬のために行動することやそれを見積ることが苦手であったとしてもその重要性を理解し、可能な限りそれを正確に行うための訓練を積むのである。

ただ、私の場合は報酬設計が異なっていたのであろう。 「勉強」、特に「受験勉強」と呼ばれるものが特段短期的にも苦痛ではなかったのである。 学校もあまり一般的ではない長距離通学であったが、学校自体が楽しく、肉体的にはつらかったこともあるがそれを上回る報酬が得られていたのである。 その結果、客観的には「将来を見越して進学校に長距離通学を頑張り、夜遅くまで受験勉強を頑張った結果受験戦争などでしっかりと結果を残した人間」と評されることになるのだが、その実主観的には「その時その時でやりたいことをやりたいようにやっただけ」であり、たまたまその「やりたいこと」が「世間的が評すること」と一致していたために結果がついてきてしまっただけなのである。 この結果、「将来を見越して長期的な報酬のために行動できる(と少なくとも世間的には評される)集団」に属することになり、その実態との乖離に気づかぬまま今まで来てしまったのである。

一言で言ってしまえば「受験勉強の才能があっただけ」ということになる。 受験勉強を楽しむ才能、そして受験勉強自体の才能があったということだろう。 もちろん多少は苦痛に感じることもあったが、本質的に「嫌いなこと」や「苦痛」とは全くもってレイヤーの異なる苦痛であった(「乗り越えられる」苦痛といったところか)。

そんな短絡的な報酬しか見ていない状態が許されるのは所謂「子供」の特権であり、所謂「大人」は許されないのである。 実は大人であっても許される場合というのは特例的に存在していて、それはその大人が「楽しむ才能」を有している対象物自体に対しての「才能」が社会的に認められるほどの才能であった場合であり、当然のことながら私はそこまでの才能を有していたわけではない。

「大人」として、長期的な報酬も考えつつ行動していくという努力が必要なのだが、これがなかなか難しい、というただの自己分析と愚痴になってしまい、特段オチも存在しないのだが、自己内面の吐露を行っているだけでもまあ良しとしよう。

Sympathy for Apathy

さて、最後にこのブログを更新してから4年が経ってしまったらしい。

なぜ4年というコールドスリープを経て筆を執ったのかといえば、大した理由はないといってしまえばそれまでなのだが、近ごろ思考というものを行っていないように感じているからというのが自らを納得させる理由といえるのではないだろうか。 元々言語を弄びながら出ないと思考が全く進まない性質の人間なのだが、近ごろは人と長らく話し込んだり自らの内的思考を吐露するような文章を書き散らしたりといったことをめっきり行わなくなってしまったため、全くもって思考という行動自体に縁がなくなってしまったような感覚にいるのである。 文章としては非常に短いとはいえ、Twitterという手段は思考を整理するのに小さくない役割を果たしていたのだろうと今になって思うのだが、あの様々な主張の坩堝と化した場所で思考を整理していけるほどの集中力は今の自分はもう持ち合わせていないのだろう。 その点、ブログという形態はより陰鬱とした部屋のような印象があり、リハビリとしては適しているのではないだろうかと思い筆を執った次第である。リハビリ、と表現するとTwitterに復帰するかのような書きぶりであるが、無論そんなつもりはない。

といったように思いつきでブログを開き、記事を書き始めてみたものの、そもそも何について書くかということも決まっていなければ、何について書きたいという思いすらもない。 昔はとにかく全身の毛穴から主張が噴出しているかの如く口を開けば主張が出てきていたのだが、最近めっきり主張したいと思うようなことがなくなった。 これが老化という現象なのかもしれない、とは思うのだが、あの主張の塊のまま年を重ねていれば駅前で主張を喚き散らす老人になっていただろうと思うので、これはこれで適切な現象なのかもしれない。

尻切れトンボではあるが、こういった毒にも薬にもならない記事から書き始めていけばよいのではないだろうか、という口実で逃げつつ、一時の迷いで終えることなく続けていきたい、という思いを残し筆を措く。

止まない雨は誰のものなの

空には雲が立ち込めている。雨がアスファルトを叩く音がうるさいくらいに耳に入り込む。

傘を持ち大学構内を歩いている。唐突にすれ違う人々の顔に力いっぱい傘を振り降ろしている自分の姿が見えた───誰の目に?他ならぬ私の目だろう。私はそうしなければならない気がする。着ている服の肌触りが、ざらつきが自棄に気になる。またあれだ。あれがやって来た。学部一年生の頃からいつも私を悩ませるあの感覚、衝動である。

「いつかこの浮かんだ情景は実現するだろうが、今ではない。」そう言い聞かせ自らを納得させる。私はここにいて、歩いていて、授業に向かっているのだ、そう言い聞かせ自覚させる。生活の中に自分を埋める。冷静になるのだ。冷静になると自分を一つ後ろから、一つ上から眺めている自分が発言しだす。小説でいう「地の文」である。何がそんなに私を駆り立てるのか?彼らの表情を見る。笑っているもの、悩んでいるもの、虚ろな目をするもの……みな表情が貼り付いている。この生活に、現実に真剣そうな顔が貼り付いている。何をそんなに真剣そうな顔をしているのだろう?そんな表情は全部ポーズだとみな気づいているのに。何を真剣そうに、バカバカしい……と苛立っていた私の苛立ちも全部ポーズだ。自分の口の端が引き攣っているのに気づく。それが笑いだということを理解するのに暫く時を要した。私はこんなに巧く笑えなかっただろうか。笑っているのが、私の顔を笑わせている感情の持ち主が、私のことを上から見ている私であることに気づく。この身体の中に存在している私は、私をもっと巧く笑わせられるのに。まるで身体の隅々まで知り尽くした女を取られた間抜けな男のような台詞だ。そう思ったときには自然な笑いが浮かんでいた。自己が統合してきた。私はまだ乖離していない。私は統合している。「地の文」の私がなんとか記憶と自己を連続に保たせているのだ。

最近、まるで何かに取り憑かれたかのように中村文則氏の本を読み漁っている。文が、小説が、登場人物が、自分の肌から浸み込んでくるような感覚を覚える。実在する他者が入り込んでくるのは非常に気味が悪く、それに対して私は異常なまでに臆病になってしまう(過去の記事でも触れた通りである)。しかし創作が入り込んでくるというのは、当然似た抵抗がないと言えば嘘になるが、自分の境界が滲んで混ぜ合わさった、非常に気持ち悪くそして心地良い感覚を自分の中で完結させて味わうことができる。登場人物と小説世界が自分と一体となったとき(梵我一如とはこういった感覚なのであろうか)、登場人物の台詞が、行動が、情景描写が、読み進めるよりも前に自分の中で一字一句違わず浮かんでくる。勿論これは錯覚なのであろう、現実にそんなことが可能であるとは毛頭思っていない。しかしそのような感覚を覚えるのは間違いのない事実なのである。読み進める視線は止まらない。文字が目に入った瞬間、まるでその直前に私自身がその文を思い浮かべていたのではないか、そう感じるのである。

こうして小説の登場人物や世界に自己を溶かすと言うのは、一見矛盾したように思えるが一種の自己防衛なのかもしれない。自分を物語化し、そして典型化する。(本筋とは外れるが、典型的と言うのは良い。予想を外れない、全て決まっている。)なぜ自分を典型化するのか?典型化、それは自分に名前を、既に自分の外で確立された名前を付けることである。そして「私はこういう人物です」と、その名前の通り行動する。そうすることで自我に強固な殻を作る。自我が外から侵入されるのを防ぐ殻を。まるでグレーゴルが毒虫になったように。そして自分すらも騙し込む。全てポーズだ。全て演技だ。全て虚構だ。

中村文則氏の小説に登場する人物達に私を典型化してみようか、私も『銃』における銃や『遮光』における指のように何かを持ち歩いたり、『悪と仮面のルール』や『遮光』における髪や爪のように体の一部を保存したりしようかしら。思い立ってふと気がつく、そういえば私は一時期自分の切った爪や耳垢、指や唇から剥いだ皮を後生大事に集めていた記憶がある。あれは中学生の頃か、将又高校生の頃だったろうか。なぜあんなものを集めていたのか今では全くわからないが、あの時はなぜかそうしていた。特に執着していたわけでもなかったと思うのだが。

中村文則氏の『迷宮』の主人公のように(或いは中村文則氏本人もそうであったと述べているように)、幼少期に自分の中に別の誰かを作り出して対話をする、と言うのは典型的な解離性人格障害であろう。私にはそんな経験はなかったと記憶しているが、幼少期に最もハマっていた遊びが少しは関連しているのかもしれない。幼少期の私は大量の人形を集め、それぞれに性格の設定をつけ、何かしら物語を即興で考え、敵味方や裏切りなどを全て設定し、声を使い分け各人形の台詞を言い、自ら作った物語を人形劇のようにして妹に見せて遊んでいた。妹が勝手に人形を動かそうものなら、「今そいつはこの舞台上にいないんだから勝手に動かすな」と怒鳴った記憶がある。自分の中にある明るい感情やその底に沈む昏い感情、そのような大きな軸だけでは区別されないような細かい感情を全て性格、人格に分けキャラクターに投影して遊んでいたのである。その頃から第三者視点、「地の文」たる自分即ち脚本家たる自分と、各キャラクターに移入する自分乃至は各キャラクターに投影させた自分と言うのを切り分けていたのだ。「地の文」たる自分が全てを統合し記憶の共有を執り行っているからこそ乖離していないが、これは非常に危うい状態にいるのではないだろうか。

書いている内容が散らかり纏まらなくなってきた。『迷宮』からどこか引用して記事を締めようかとも思ったが、この小説については別口で何か書かなくてはならないという気がするので何も引用することなく締めようと思う。雨がやんでいることに気がついた。人々が道を踏む音がうるさい。何故か道端に落ちている一つの石が気になって仕方がない。自分の手が傘を握る形をしているのに気がつき、そりゃあ傘を握っているんだから当然だと自分を嘲笑う。足を前に踏み出すことが大切だ。暫し生活の中に埋没しようと思う。「地の文」の私に欠伸をさせる───一体誰が?考えるのはよそう。お休み。

サルトル『嘔吐』読書記 2

寒い夜だ。

低気圧で何もできずに布団で一日を過ごし、目が覚めたら夜であった。このままではいけないと思いシャワーを浴びて身体と頭脳を起こし、腹ごしらえをして一日を始める。何をする気にもなれないのでこんな時は本でも読もうと思い音楽を流しながら熱い茶を啜り本を読む。寒さと言うのは苦手であるが、寒い日の澄んだ空気、身動きをすると自分の何かが切れる、自分のどこかに空気が刺さるような感覚は好きである。しかしどうしたことか、本を読み進め気を持ち上げようとしても一向に陰鬱な気分は晴れず、集中が続かない。思考があちこちに飛んで行ってしまう。何か手でも動かせば集中が続くかしら、そう思いブログを更新するに至った。散逸した文になってしまうだろうが、そういったところも自分の書く文であろう。主題が通奏低音として流れながらあらゆる記述が必要十分に張り巡らされ、各文が密なネットワークを構築しているような文章と言うのは、私には荷が重い。少なくとも今書かずとも良いであろう、いずれ気が向いたら……その気が向くときは来るのかしら、などとまた思考が雲散してしまい、霧消はしてくれない。これ以上続けていると頭の中の情報量が爆発するのでさっさと目の前の『嘔吐』に集中しよう。

さて、前回は「日付のないページ」で、ロカンタンが「もの」の見方が変わってしまい、何かふとした瞬間に恐怖を感じた、乃至それに似た感情を覚えたことを記していた。

その後「十時半」と書かれたパラグラフが始まる。

結局のところ、あれはおそらく、ちょっとした狂気の発作だったのだろう。今はもうその痕跡もない。先週感じたおかしな気持は、今日になるとひどく滑稽に見える。もうあんなことにはならないだろう。今夜の私はこの世界のなかで、ブルジョワ的にすっかりくつろいでいる。ここは私の部屋で、北東に面している。

原注に依れば、このパラグラフは前回の部分よりもずっと後、早くとも翌日に書かれたものであると言われている。本当にそうだろうか?私は疑問に思う。前回の部分の同じ日の夜なのではないだろうか? この「十時半」の日記でロカンタンは執拗なまでに「治った」ことを自分に言い聞かせている。これは本当に治ったかどうかはさておき、自分に「日記を書き始めたことで治ったと思い込ませている」のではないだろうか?皆さんにそのような経験はないだろうか。私には大いにある。何か新しいことを始めるときにその効能と言うのを自分の中で必ず意識しており、そしてその何かが無駄でなかった、始めるという自分の選択は正しかったと自らに信じ込ませるために(信じ込むのは一階層下の自分であり、「自分に信じ込ませている」状況を認知している自分も存在するのだが)、その何かを始めた直後にその効能を自らに説く、と言うのはほぼ必ずある経験である。 サルトルはしかし、こういった経験や感覚と言うのは一般的でない、乃至少なくともこの日記の「刊行者」は持っておらず、それ故「十時半」はずっと後に描かれたものだと思い注を付けるに至った、という一種のロールプレイを楽しんでいたのではないだろうか?……などと言うのは考えすぎなのかもしれない。私には正解がわからないが、正解のわからないものを考え続けるのも楽しい。

ところで内容の話に踏み入れよう。先に触れたようにロカンタンは自分に「治った」と言い聞かせている。ここで注目したいのが「今夜の私はこの世界のなかで、ブルジョワ的にすっかりくつろいでいる。ここは私の部屋で、北東に面している。」の記述だ。 この記述に私は甚く共感する。自分が「治った」と思うためにはどういった主張をするのか。自らに宿った理解していない感情を切り離すためメタに立った視点から自己を客観視し(これは離人している人間にとっては非常に容易だ)、かつ「メタに立ち客観視することで自分の感情を無視しているだけだ、現実感を喪失しているだけだ」と言う主張に反駁するため、現実感を自分に言い聞かせる、即ち「私はここにいる」と知覚するのである(後者のこれは私もよく行うことで、日常のふとした瞬間に「俺はここにいる」「ここは俺の部屋だ」「ここは街だ」と独り言ちることが多い)。

これを意識すると「ここは私の部屋で、北東に面している。」の一文が非常に味わい深くなる。 主体が自分の身体と一致した階層にいるとき、自らが存在する部屋が北東に面していると意識することがあろうか?昼に日が差しているのを見て「南向きだ」と意識することはあっても、「ここは私の部屋で、北東に面している。」といった文が出てくるのは、視点が遠くに飛んでいるからこそのものであろう。いやはや私も非常に共感できる。

全く関係ないが(ということもないかもしれないが)私の好きな Radio d2b on AIR という曲の歌詞を置いておく。

キラキラした時間刻め!

聴こえてきた歌がそう言ってる

大きな声で世界中に叫ぼう

僕はここに、ここにいるって


---第二文芸部 "Radio d2b on AIR"

閑話休題、その後ロカンタンは窓からの景色や聞こえてくる音など、外の様子を記す。ここについても言いたいことがいくらかあるが、それはきっと後程にまた相応しいところが出てくるであろうし、ここで述べるには些か曖昧が過ぎる。

そしてロカンタンは「ルーアンの男」について言及し、将にそれを記しているときに彼が階段を上がってくる音を聞く。

ところで階段を上がる彼の足音が聞こえた時、私は少しほっとした。それほどに、これは安心感を与えるものだった。かくも規則正しい世界を、なんの恐れることがあるだろう?私はどうやら治ったようだ。

思った通りに男が来る。きっと一時間後には今過ぎた電車の次、最終電車が通り過ぎるだろう。規則正しい、即ち自分の思った通りのことが起きる世界である。このような「もの」たちにロカンタンは自分を悩ませる感情である「それ」を感じる必要などない。

さて、「十時半」のたかが2ページについて長々と語ってきたが、この記事を書いている間は相当に集中できていたようだ。どうやら私も治ったらしい。次回に続く。

人間が具体的で吐きそうだ

人間が具体的で吐きそうだ。

修士二年にもなって授業の単位数が足りていないという非常にまずい状況のせいで、本日は気乗りのしない授業に出席した。気乗りのしない、と言うのは当然で、私は生物系の専攻なのであるが一般的な生物学というのは余りに具体的で興味が湧かない(勿論すべてがそうではなく、また具体を学ぶことで見えてくる抽象と言うのは非常に食指の動くものであるのは確かである)。分野が具体的なら人間も具体的で、教室内に存在する多くの人間が具体的である。どの人間の顔も同じに見える、ざわざわと話している内容は単位の話、予定の話、飯の話、どの人間も話しながらさも「私は幸福です」「私は人間です」と誰かに見せつけるかのように笑顔を張り付けている、みな同じ顔をしている……そのどこにも抽象がない。人間の上に乗っているべき物語やそれに基づく哲学が一切見えない。気持ちが悪い。

教室、彼らの"群れ"の中に入っていく。金髪・黒のTシャツ・黒のスキニーパンツ・チョーカー・シドチェーン・ヘッドフォン。「あ、異物だ」という目が一瞬私に向けられるが、彼らはすぐにまた「私人間です」といった顔に戻る。笑顔がトリモチのように張り付いている。きっとその笑顔を剥ぐと顔は残っていないのだろう。教室の一番後ろに陣取り彼らを観察する。画一的で、具体的。顔を見る。本当に気持ちが悪い。会話に合わせて動いているはずの彼らの表情はしかし、表面が波打っているだけに見える。表情が何もわからない。なぜ?どうしてお前らは生きている?吐きそうだ。いや、もしかしたらもう吐いているのかもしれない。眩暈が止まらない。本記事の下書きを打ち込む画面を見つめ続けることで何とか正気を保っている。もしかして私は50人きょうだいの中に一人紛れ込んだ橋の下の子供なのか。奴らはまだ具体の話をしている。全て無意味だというのに。なぜ奴らはずっと具体の話をし続けていられるのだろう?バカバカしくなることはないのだろうか?

それらから顔がなくなる。手足がなくなる。全て同じになる。蠢く肉塊の中に一人取り残され嘔吐をしている。

専攻を変えた方がいいのかもしれない。終わり。