一里塚

日々の流れに打ち込む楔は主観性だけあればいい。

人間が具体的で吐きそうだ

人間が具体的で吐きそうだ。

修士二年にもなって授業の単位数が足りていないという非常にまずい状況のせいで、本日は気乗りのしない授業に出席した。気乗りのしない、と言うのは当然で、私は生物系の専攻なのであるが一般的な生物学というのは余りに具体的で興味が湧かない(勿論すべてがそうではなく、また具体を学ぶことで見えてくる抽象と言うのは非常に食指の動くものであるのは確かである)。分野が具体的なら人間も具体的で、教室内に存在する多くの人間が具体的である。どの人間の顔も同じに見える、ざわざわと話している内容は単位の話、予定の話、飯の話、どの人間も話しながらさも「私は幸福です」「私は人間です」と誰かに見せつけるかのように笑顔を張り付けている、みな同じ顔をしている……そのどこにも抽象がない。人間の上に乗っているべき物語やそれに基づく哲学が一切見えない。気持ちが悪い。

教室、彼らの"群れ"の中に入っていく。金髪・黒のTシャツ・黒のスキニーパンツ・チョーカー・シドチェーン・ヘッドフォン。「あ、異物だ」という目が一瞬私に向けられるが、彼らはすぐにまた「私人間です」といった顔に戻る。笑顔がトリモチのように張り付いている。きっとその笑顔を剥ぐと顔は残っていないのだろう。教室の一番後ろに陣取り彼らを観察する。画一的で、具体的。顔を見る。本当に気持ちが悪い。会話に合わせて動いているはずの彼らの表情はしかし、表面が波打っているだけに見える。表情が何もわからない。なぜ?どうしてお前らは生きている?吐きそうだ。いや、もしかしたらもう吐いているのかもしれない。眩暈が止まらない。本記事の下書きを打ち込む画面を見つめ続けることで何とか正気を保っている。もしかして私は50人きょうだいの中に一人紛れ込んだ橋の下の子供なのか。奴らはまだ具体の話をしている。全て無意味だというのに。なぜ奴らはずっと具体の話をし続けていられるのだろう?バカバカしくなることはないのだろうか?

それらから顔がなくなる。手足がなくなる。全て同じになる。蠢く肉塊の中に一人取り残され嘔吐をしている。

専攻を変えた方がいいのかもしれない。終わり。