一里塚

日々の流れに打ち込む楔は主観性だけあればいい。

サルトル『嘔吐』読書記 1

前回の記事から二月も経ってしまった。いやはや、筆不精と言うのもいい加減にしなくてはならない、『嘔吐』について書かねばならぬこと、否、私が書くであろうことが多すぎる、一々全てを引用していかなければならないのではないかというほどである。あれこれ言ったところで言い訳に過ぎない。早速『嘔吐』を読みながら感じたままのことを素直に記していくとしよう。 なお、用いているのは人文書院の鈴木道彦訳であり、今後引用もすべてそれに準ずる。

本文の書き出し、ロカンタンの日記は以下のように「日付のないページ」から始まる。

一番いいのは、その日その日の出来事を書くことだろう。はっきり見極めるために日記をつけること。たとえ何でもないようでも、微妙なニュアンスや小さな事実を落とさないこと、とりわけそれを分類すること。このテーブル、通り、人々、刻みタバコ入れが、どんなふうに見えるのかを言わなければならない。なぜなら変化したのはそれだからだ。この変化の範囲と性質を、正確に決定する必要がある。

(太字は原文傍点)

ロカンタンは何かの「変化」を感じて日記をつけ始める。物語の始まりである。変化したのは「なんでもないようなものが自分にとってどんなふうに見えるのか」なのである。その後ロカンタンは目の前にあるインク瓶の入った厚紙の箱について著そうとしたのち、こう綴る。

ばかばかしい、これについて何も言うことなどありはしない。避けるべきはこういうことで、何もないのに奇妙だと考えてはならないのだ。日記をつけるとすれば、危険はそれだと思う。つまりすべてを誇張し、鵜の目鷹の目で、絶えず真実をねじ曲げてしまうことだ。

これについて私は同意を叫ばざるを得ない。友人の勧めなどもあり嘗て日記をつけようと試みたことが幾度かあるが、結局毎度三日坊主とまではいかないまでも一週間ほどで厭になってしまい已めてしまうのである。私の日記においてはその日常にあったことが全て物語的に誇張されてしまうのである。無意識的に「今日あったこの事実は特段私の中で今主流となっている考え(即ち、物語の主題と言えよう)に関与しないのだから記す必要がない」「今日あったこの事実は私の人生という物語の中でこのように寄与しているべきであり、だからこそ私はこの事実からこういった考えを想起するのである」などと言ったように事実を歪めてしまう、乃至記述が誇張されてしまうのである。事実を歪めたところでそんな日記は誰に読ませるものでもない、嗚呼、自分は誰にも見られないと理解っているところですら演じざるを得ないほどには自己がないのだな、と辟易してしまう。それならば寧ろ「あったことを全てありのままに記そう」と思い立ち日記を記すも、関係のない事柄が散逸した日記を読み返すと、自分の人生が物語ではなくただ平凡な人生であると突き付けられているようで倦厭してしまうのである。

その後ロカンタンはしかし、ものに対する印象が指の間から零れ落ちないように注意深く記録するべきだと考え直す。そして「土曜日の件」、即ち悪童たちの水切りに混ざろうとして石を拾い上げたが、「何か」に対して気持ち悪くなってしまい、石を落として離れてしまったことについて記述する。

一週間前に友人と旅行に行き、岩手は一関、猊鼻渓で水切りをしようとしたときにここの文章を思い出したものである。その時は「本当に石の裏側だけが泥で汚れている」などと考え、私もロカンタンと同様一瞬石を落としそうになった(『嘔吐』におけるロカンタンの言動を思い出したこととは関係なく)。ここでの事件についてはロカンタン自身が「まだ」何があったのか把握していないので私も触れておく程度にとどめておこう。

「一昨日のこと」にもロカンタンは触れているが、これについては詳細な記述はされていない。しかし兎に角重要なのは以下の文である。

奇妙なことに、自分が狂ったとは一向に思えない。むしろ、狂ってなどいないことが明確に見てとれる。こうした全ての変化は、物に関係している。せめてそれくらいのことは確実にしたいものだ。

変化したのはあくまで「もの」の見方なのである。「もの」を見る自分自身の見方が変わったのか、「もの」自身が変化してしまったのか、それについてはわからないが、ということだろうか。これについては雑多に考えを記録しているだけなので今後回収されるかどうかは定かでない。

本文では2ページほどの文に対してこんなにも長々と記してしまったが、悔いは特にない。如何せん一文一文が味わって読むに値するのである、こればっかりは仕方ない。いつになるかわからないが、次回へ続く、として筆を擱く。