一里塚

日々の流れに打ち込む楔は主観性だけあればいい。

創作の 揺蕩う世界に 身を任せ

親しい友人にはよく話しているのだが、私は「自分はオタクであるということを周囲にオープンにすること」、また「所謂"オタク"を受け入れている世界の描写」(現実の世界では決してオタクという存在は受け入れられていないと私は信じているため、ここでいう「世界」は創作の世界に限り、だからこそ「世界の描写」という表現に限定させていただく)、そして「あたかもオタクを受け入れているかのような環境に甘んじ、周囲に対しオタクであることをオープンにしている人間」がとても嫌いである。それはもう反吐が出るほどに。生トマトと同じくらい嫌いであるし、憎い。

 

そもそも「オタク」とはなんであろうか。この言葉の指す範囲があまりに広すぎるため、その時々の発話者にとって便利な文脈でワイルドカード的に使用されることが多い気がするのは私だけではないと思う。ここから暫く、「オタク」なる言葉を、とりあえず便利なように「創作の世界を消費してないと生きていけない人物」と定義してみよう。媒体はアニメ・ドラマ・小説・演劇・音楽・ゲーム、なんだっていい。

 

私は創作の世界を消費していないと生きていけない。創作の世界の物語が好きだ。創作の世界で渦巻く人間関係が好きだ。創作の世界で鬱屈と溜まり、爆発する感情が好きだ。創作の世界の美しさが好きだ。創作の世界の彩が好きだ。創作の世界の刻むリズムが、奏でるメロディが好きだ。創作の世界で紡がれる言葉が好きだ。創作の世界の完結された美しさが好きだ。創作の世界を我々に伝えるレトリック、演技が好きだ。創作の世界を味わった後、その余韻に浸っている時間が、日常の何でもない時間に思い出してしがんでいる時間が好きだ。

 

なぜこんなにも創作の世界が好きなのか、なぜ創作の世界に思いを馳せていないと生きていけないほどに好きなのか。「ある概念に対して好きだ」というときに外部の要因を挟み込むのは完結性に欠け、邪で真摯でないと思うのだが、これは矢張り「現実」なる世界への虚無感から来ているのではないのだろうか。「現実」なる世界にはいかんせん無駄が多い。その無駄には意図が感じられない。美しくないのである。この穢らわしさに対して常に虚無感を抱いてしまう。その虚無感からの反発で(反発により何かに依存する、というのは本当に偽りであり私自身この姿勢には嫌気がさしているところであるのだが)創作という、全ての事象・描写に意図が感じられる(と私は考えている)世界への憧憬が増してゆくのである。

 

以上は私自身のことしか考慮していないし、勿論著しく客観性に欠けている意見なのだろうとは思う。ただ、私自身がどうしてもこういった考えに囚われてしまうのである。このことから、私は「オタク」なる存在はみな「現実への虚無感」を持っている人間だと考えてしまう。

 

では、ここで「オタク」なる言葉の定義を広げてみよう。上で述べたような現実への虚無感を覚えることなく、創作の世界をただ「趣味として楽しむ」人間、という存在はどうであろうか。

ここでは彼らのような存在を仮に「ライトなオタク」と呼ぶようにしよう。偏見と僻み(私は僻みだとは思わないが、予防線として一応僻みという言葉も入れておこう)混じりの意見となってしまうのだが、「ライトなオタク」の存在が「オタク」の存在を消してゆくのである(勿論「ライトなオタク」全般ではなく、一部の話である。ただ、この一部というのが数として、否、声の大きさとしては大きいのではないか、と感じる)。マイノリティの中のマジョリティがマイノリティを盾にして、マイノリティのスタンダードとして君臨し、ほかのマイノリティを駆逐してゆく、というのは一般論として成り立つものだ、というのは共通認識としておいても良いだろう。「創作の世界を楽しむ人間は皆、ライトな趣味として楽しんでいる」のであり、「オタク」がひとたび「小生はアニメが好きであり……ドゥフフ」などと自己紹介をしてしまうと「ライトなオタク」が「\オレモー/」を唱え始め、彼らから「オタク仲間」と認識されてしまう。しかし、「演出が云々」や「あのレトリックは云々」などと話し始めたが最後、「仲間」から「異物」になった存在に人間が抱く感情というのは「嫌悪」しかないのである。

……少々度が過ぎた。幾度となく言われているであろう意見の焼き直しでしかない言述、しかも偏見でむくむくと膨れ上がった僻みなのであろう。

 

とにかく、「ライトなオタク」の中でも、すぐに「オタク仲間」判定を下したがる存在というのは私の嫌悪する存在であり、自らが「ライトなオタク」と認識されようものならば、恥のあまり今すぐ皇居の前で焼身自殺を図るほどである。しかし、この「ライトなオタク」なる存在として自己を認識させないとするならば、「オタク」であることをオープンにするというのは、「私は現実に虚無感を抱いている精神障害者です」と告白するようなものなのである。

 

私には、現実世界において到底このような告白はできない。だってそれはなんの物語も生まない「無駄」なのであるから―――。