一里塚

日々の流れに打ち込む楔は主観性だけあればいい。

睡眠について

私は睡眠が嫌いだ。

モリモリと進捗を産んだ日などに、「幸せな眠りにつく」などの表現をよく目にする。私にはこれがわからない。私が睡眠につくときといえば、決まってあらゆる空想・妄想・強迫から逃げ出すかのように眠りにつくのである。

そもそも「睡眠」という行為が私には恐ろしくてたまらない。この世界というのは、私が知覚している以上、どうしたって私が知覚できる範囲でしか動かないのである。そのくせ、私が眠りについているその間にも、世界というのは動き続けている。時間が流れ続けているのだから。私にはこれが居ても立っても居られないほど恐ろしい。目覚めたその瞬間、私が知覚していない変化を大量に伴った世界がそこに広がるのである。これが恐ろしくなくて一体なんなのであろうか。

例えば進捗を産んで幸せな気分になった日、私はその幸せの余韻に浸りたい。その選択肢として浮かんでくるのは、日記を記したり、酒を飲みながらぼんやりと空想に耽ったり、そういうものなのである。そこに睡眠などという行為が入り込む余地があるだろうか。

睡眠についたが最後、この世界から「私」という主体が、短期的にとはいえ完全に消滅するのである。次に目覚めたとき、そこにいる私という存在は、今の私とある程度記憶を共有こそすれ、完全に別の存在となるのだ。なぜならそれの知覚する世界は完全に異なっているのだから。それほど恐ろしいことはない。いや、強迫に駆られているときにはこの逃避はもってこいなのだが。

こうして今日も、逃避行動としての睡眠を執り行い、また「明日の自分」へと記憶のバトンを託して「今日の私」は布団という名の棺桶に入り、埋葬されてゆくのである。