一里塚

日々の流れに打ち込む楔は主観性だけあればいい。

近況報告、からの抽象化

ここ一か月ほど、ブログを更新する間もなくずっと書類仕事をしていた。たかが一組の書類であるが、これが中々に重たいものであり、すらすらと筆の滑るままに著せばよいブログとは違ってずっと筆が止まったまま唸っているという時間が長い。

この書類を書いていると、先輩や友人に見せ悪い点を洗い出し修正を行うという作業のループに入る。そんな時に先輩から受けた言葉が印象に深く残っているのでここに著そうと思い筆を執った。

端的に言うならば、その言葉は「君の書く文章は普通であれば一文一文切るところを繋げ、非常に長くなっている。その一文の長さを補うためかわからないが、細かいニュアンスを多くの語彙で表すのでなく、ただの一語でカチッと表そうとするため一文辺りの情報量が多く、集中していないとまるで読めない。さらに抽象→具体と説明するのではなく抽象→別の抽象に言い換えという形で説明を行うので益々わかりづらい。」という内容であった。確かに見返せば私の書いた書類は読点の数が多く、句点がまるで存在しない。一段落を丸々すべて一文で埋め尽くすということがざらにある。具体的に説明を執り行うための書類のはずなのに、「例えば」という語彙が一度として登場しない。私の文章の癖というものが見抜かれた気分である。

そもそも私は人から概念の説明を受けるとき、特にその説明の対象について私が文脈を共有している場合において、「例えば」という言葉を使われるのを甚く嫌う。勿論説明側にそんな意図がないというのは重々理解しているつもりではあるのだが、これは一種の病気で、どうしても「例えば」と言われると「お前の貧弱な知能では抽象の話が理解できないだろうから、多少情報の抜け落ちがあろうとも想像のし易い具体で説明してやろう。」と言われている気がしてならない。

物事を説明するにあたって相手の処理能力を無限と仮定するのであれば、情報の抜け落ちが生じ得ない抽象による説明が最適なのである。説明される概念とは普通抽象なのであるから、抽象と抽象の積集合として概念を説明すればそこに情報の抜け落ちはない。情報落ちが無いように具体で説明しようとすると、その概念の表す具体を網羅しなくてはならず、そんなことは不可能である。

この意識が強く出ているのであろう。私の書いた書類というのはひどく抽象的な概念とその言い換えの羅列、抽象的な概念同士のアナロジー、それを補強するためにまた抽象的な論理、というようになっている。別に具体について考えるのが嫌いというわけではないが、個々の具体からより一般的な抽象に当てはまるような法則を見つけ出す、というところにカタルシスを覚えてしまう。これは性癖であり治らないものなのであろう。

そういえば以前友人に「お前は過度な一般化を行いがちだ」と指摘されたことがある。これも私の癖に由来するのであろうか。どうしても具体に興味が湧かず、具体の話をされるとすぐにそこから一般化を行って法則なるものを抽出しようとしてしまう。

地に足のつかない哲学が好きなのだ。創作を好むのもここに由来するのであろうか。実世界はすべて具体で穢らわしい。