一里塚

日々の流れに打ち込む楔は主観性だけあればいい。

白煙を燻らせ

私の過去のブログ記事を読んでいる人ならば知っていることであろうが、残念ながら私には文才というものが皆目無いようである。私は創作を好むが、私の好む創作のように文章一つで人を唸らせる、そういったものは私には到底不可能のように思える(これは非常に残念なことである)。

では私の書くことのできる文章とは一体なんであるのか、そういったことを最近ずっと考えている。これは矢張り、外因的な、すなわち現実を元にした物に違いないのであろうという結論に至った(この結論は私がこの議論を始めた段階で思い至っていた結末の一つに過ぎないが……)。私の知っている現実に即した物語となれば、私の祖父母の物語、私の従兄弟伯父の物語となるが、これは電子の海に放流するには些か抵抗のある話となる(抵抗のある、という表現は適切でない。正しくは「電子の海に到底放流できるものではない」となるべきである)。

そんなことを考えていて、不図思い立ったことがある。「私が物語にしようとしているのは、一人の人間の人生そのもの、それもその人生が物語たりうる人間の人生そのものなのではないだろうか」と。ならば、私がブログに綴るものも、「私」という一人の人間の人生をその時々でつづっていくのが正しいのではないだろうか、と。

元来、「ブログ」という言葉は「web log」からきている。すなわち、ログなのである。私が一人の人間として人生を全うした際に(それはとても物語的であるかもしれないし、とても詰まらないものかもしれない)、この「ブログ」から感情の遷移などを読み取れる形になっていれば(それが他者に読み取ることが可能か不可能かに拘わらず)良いのではないだろうか。そう思った次第である。

前置きが長くなってしまったが、要は「日々のことを、その思った/ あったに関わらず、綴ろうと思ったときに綴っていこうではないか」という決心の言い訳である。

それにしても梅雨である。低気圧には滅法弱い。毎日頭が痛くて仕様がないし、起きれば夕方という日も多い。今日も起きれば午後四時半であった。どうしようもない日を過ごしていたが、その中で不図地元のことについて思い立ち、私の地元で起きた事件とその逮捕者について調べていた。小学校の同級生などが見つかると面白いと思いながら探していたのだが、その中に私の従兄弟伯父の名前を見つけた。私の人生の物語性は矢張り現状で彼には勝てない。悲しくなってしまった。

人生において戦いというものが存在しないから、私の人生は虚構となってしまう。これが言い訳であることは重々承知している。だが、男子校の体育祭を見よ。彼らは学校という、彼らの世代においての集団・規則・社会の象徴たるものから与えられた「戦い」というものに熱中している。棒倒し、騎馬戦……それらの数々は「戦いのまがい物」に過ぎない。非常に嘆かわしいものである。早急に徴兵制度が復旧してほしいと願う(国のため、などという戦いの大義名分は到底”ダサい”ので何か新しい題目を立てるべきだと考えるが)。社会などという煙に巻いたような強制ではなく、凡人にもわかりやすい徴兵制度が必要なのである。徴兵制度が復旧すれば、私はその題目の定める敵ではなく、徴兵制度と戦うのであろう。

そんな煙に巻いたようなことを考えながら、ベランダで煙を燻らせていた。「紫煙」と呼びたかったが、すでに日も落ち、真っ黒く重い雲に消された星明かりの下ではただの白く風情もない煙である。どうも私は、とことん風情とやらに見放された人間であるようだ。

今日は妹の20歳の誕生日である。何を送ろうか。そう考えながら筆を擱く。