一里塚

日々の流れに打ち込む楔は主観性だけあればいい。

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「人はなんのために生きるのだろう?」

安っぽい J-POP の歌い出しや、怪しい宗教勧誘の一言目のような一文目でブログを書き始めてしまったが、しかしこれは矢張り生きているに連れずっと自分の世界の中にふよふよと漂う物だと私は思っている。

「なんのために生きるのか?」と問われれば、私は「カッコよく死ぬためである」と返すのであろう。死という境界線が明記されるからこそ生は意味を為す。

高く高く積み重ねた積み木を一気に壊すのが好きだった。カッコよく死ぬ、というのも、自分の手で高く積み重ねたものを自分の手で破壊するところにこそ存在すると思う。だから自殺は美しい。

春の吐息が香る中

「春風の香りだ」

今日私は外に出て真っ先にそう感じた。頭で何を考えるよりも早く、春の香りが鼻孔を擽るのを感じた。

私にとって、真っ先に季節を感じさせるのは目でも耳でも肌でもなく、鼻である。それも、金木犀の香りや沈丁花の香り、というわけではなく、風の香りである。田舎に育った私にとって、季節によって、日によって、時間帯によって身にまとう香水を変えてくれる風というのは一番のオシャレさんであった。

びゅうっと鼻に突き刺さるような、それでいて澄んだ香りの風で感じる冬の訪れ。突きさすような中に、掻き起こされた田んぼの土の香りを運ぶ風で感じる冬の終わり。田んぼに張られた水の香りを運びながら、やわらかく鼻に入ってくる風で感じる春の訪れ。田植えが終わって草の香りを運ぶ風で感じる春の終わり。雨の香りで感じる梅雨。むっとした湿気と照り付ける日差しを運ぶ風の香りで感じる夏。いつのまにかどこかへ行ってしまった水の香りの代わりに我が物顔で居座る土の香りを運ぶ風で感じる秋。あら、今日は季節の香りじゃなくって潮の香りなのね、などと風の香りを楽しむ。

東京は人間の臭いが邪魔で風の香りがわかりづらい。あの懐かしい香りを味わいに、たまには実家に帰ろうか、などと思いながら春の風を楽しんでいる。

創作の 揺蕩う世界に 身を任せ

親しい友人にはよく話しているのだが、私は「自分はオタクであるということを周囲にオープンにすること」、また「所謂"オタク"を受け入れている世界の描写」(現実の世界では決してオタクという存在は受け入れられていないと私は信じているため、ここでいう「世界」は創作の世界に限り、だからこそ「世界の描写」という表現に限定させていただく)、そして「あたかもオタクを受け入れているかのような環境に甘んじ、周囲に対しオタクであることをオープンにしている人間」がとても嫌いである。それはもう反吐が出るほどに。生トマトと同じくらい嫌いであるし、憎い。

 

そもそも「オタク」とはなんであろうか。この言葉の指す範囲があまりに広すぎるため、その時々の発話者にとって便利な文脈でワイルドカード的に使用されることが多い気がするのは私だけではないと思う。ここから暫く、「オタク」なる言葉を、とりあえず便利なように「創作の世界を消費してないと生きていけない人物」と定義してみよう。媒体はアニメ・ドラマ・小説・演劇・音楽・ゲーム、なんだっていい。

 

私は創作の世界を消費していないと生きていけない。創作の世界の物語が好きだ。創作の世界で渦巻く人間関係が好きだ。創作の世界で鬱屈と溜まり、爆発する感情が好きだ。創作の世界の美しさが好きだ。創作の世界の彩が好きだ。創作の世界の刻むリズムが、奏でるメロディが好きだ。創作の世界で紡がれる言葉が好きだ。創作の世界の完結された美しさが好きだ。創作の世界を我々に伝えるレトリック、演技が好きだ。創作の世界を味わった後、その余韻に浸っている時間が、日常の何でもない時間に思い出してしがんでいる時間が好きだ。

 

なぜこんなにも創作の世界が好きなのか、なぜ創作の世界に思いを馳せていないと生きていけないほどに好きなのか。「ある概念に対して好きだ」というときに外部の要因を挟み込むのは完結性に欠け、邪で真摯でないと思うのだが、これは矢張り「現実」なる世界への虚無感から来ているのではないのだろうか。「現実」なる世界にはいかんせん無駄が多い。その無駄には意図が感じられない。美しくないのである。この穢らわしさに対して常に虚無感を抱いてしまう。その虚無感からの反発で(反発により何かに依存する、というのは本当に偽りであり私自身この姿勢には嫌気がさしているところであるのだが)創作という、全ての事象・描写に意図が感じられる(と私は考えている)世界への憧憬が増してゆくのである。

 

以上は私自身のことしか考慮していないし、勿論著しく客観性に欠けている意見なのだろうとは思う。ただ、私自身がどうしてもこういった考えに囚われてしまうのである。このことから、私は「オタク」なる存在はみな「現実への虚無感」を持っている人間だと考えてしまう。

 

では、ここで「オタク」なる言葉の定義を広げてみよう。上で述べたような現実への虚無感を覚えることなく、創作の世界をただ「趣味として楽しむ」人間、という存在はどうであろうか。

ここでは彼らのような存在を仮に「ライトなオタク」と呼ぶようにしよう。偏見と僻み(私は僻みだとは思わないが、予防線として一応僻みという言葉も入れておこう)混じりの意見となってしまうのだが、「ライトなオタク」の存在が「オタク」の存在を消してゆくのである(勿論「ライトなオタク」全般ではなく、一部の話である。ただ、この一部というのが数として、否、声の大きさとしては大きいのではないか、と感じる)。マイノリティの中のマジョリティがマイノリティを盾にして、マイノリティのスタンダードとして君臨し、ほかのマイノリティを駆逐してゆく、というのは一般論として成り立つものだ、というのは共通認識としておいても良いだろう。「創作の世界を楽しむ人間は皆、ライトな趣味として楽しんでいる」のであり、「オタク」がひとたび「小生はアニメが好きであり……ドゥフフ」などと自己紹介をしてしまうと「ライトなオタク」が「\オレモー/」を唱え始め、彼らから「オタク仲間」と認識されてしまう。しかし、「演出が云々」や「あのレトリックは云々」などと話し始めたが最後、「仲間」から「異物」になった存在に人間が抱く感情というのは「嫌悪」しかないのである。

……少々度が過ぎた。幾度となく言われているであろう意見の焼き直しでしかない言述、しかも偏見でむくむくと膨れ上がった僻みなのであろう。

 

とにかく、「ライトなオタク」の中でも、すぐに「オタク仲間」判定を下したがる存在というのは私の嫌悪する存在であり、自らが「ライトなオタク」と認識されようものならば、恥のあまり今すぐ皇居の前で焼身自殺を図るほどである。しかし、この「ライトなオタク」なる存在として自己を認識させないとするならば、「オタク」であることをオープンにするというのは、「私は現実に虚無感を抱いている精神障害者です」と告白するようなものなのである。

 

私には、現実世界において到底このような告白はできない。だってそれはなんの物語も生まない「無駄」なのであるから―――。

 

睡眠について

私は睡眠が嫌いだ。

モリモリと進捗を産んだ日などに、「幸せな眠りにつく」などの表現をよく目にする。私にはこれがわからない。私が睡眠につくときといえば、決まってあらゆる空想・妄想・強迫から逃げ出すかのように眠りにつくのである。

そもそも「睡眠」という行為が私には恐ろしくてたまらない。この世界というのは、私が知覚している以上、どうしたって私が知覚できる範囲でしか動かないのである。そのくせ、私が眠りについているその間にも、世界というのは動き続けている。時間が流れ続けているのだから。私にはこれが居ても立っても居られないほど恐ろしい。目覚めたその瞬間、私が知覚していない変化を大量に伴った世界がそこに広がるのである。これが恐ろしくなくて一体なんなのであろうか。

例えば進捗を産んで幸せな気分になった日、私はその幸せの余韻に浸りたい。その選択肢として浮かんでくるのは、日記を記したり、酒を飲みながらぼんやりと空想に耽ったり、そういうものなのである。そこに睡眠などという行為が入り込む余地があるだろうか。

睡眠についたが最後、この世界から「私」という主体が、短期的にとはいえ完全に消滅するのである。次に目覚めたとき、そこにいる私という存在は、今の私とある程度記憶を共有こそすれ、完全に別の存在となるのだ。なぜならそれの知覚する世界は完全に異なっているのだから。それほど恐ろしいことはない。いや、強迫に駆られているときにはこの逃避はもってこいなのだが。

こうして今日も、逃避行動としての睡眠を執り行い、また「明日の自分」へと記憶のバトンを託して「今日の私」は布団という名の棺桶に入り、埋葬されてゆくのである。